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明日に備えて今日何をするか [ごめんなさい]

これから明日のことを考えてみる(突然でごめんなさい)。

ただ単に明日の未来予想をするわけではない。

つまり過去に関して(昨日までのことに関して)ほとんど力を入れて仕事を行わないことにする。

つまり「明日に備えて今日現在何をしておくかである」。


具体的に明日土曜日は

活動:
日々のマネジメント
全体と部分のバランス
柔軟性
時計からコンパスへ
計画・準備・予防
ぼつぼつゆっくりすること
質素な生活
p/pcバランス
硬さから柔らかさへ

仕事:
リフィルの交換
羽を伸ばす
のんびりすること
予習・復習
刃を研ぐ
新聞出し
トイレ掃除
玄関・庭掃除
スバル日常点検
スバル窓ふき
準備
リフィルの交換
手帳書き
手帳手入れ

洗濯もの取り込み
読書
植物に水やり
生活主体

と、書いている。毎日、曜日ごとの活動・仕事を書いている。

実はこれ自分の一番の行動理解方法であり、書くのは大好きです。

人には2つのタイプがあって「聞いて理解する人(自分の話していることを聞くを含む)」と「読んで理解する人(自分が書いた文字を見て理解するを含む)」に分けられるそうです。

自分は典型的な「読む人」であります。話すのは(聞くのは)大の苦手であります。

自分の目的とするものがはっきりしないのが不満である。

自分は何の役割があり何のために生きているのか真剣に考えているのだが、周りでいろいろな出来事が乱気流のように起こるので今のことで精一杯になってしまうのである。

明日は明日は、と考える時間が実のところ手帳にただ単に予定を書いているのが現状である...。

つまり「全体のバランス」が崩れた状態にあります。


と、ぼやきになってしまいました。ごめんなさい。

私の人生のコンパスは手帳でありものでも時間でもなく知識であると読書をし、パソコンで何か情報を送っている日々を過ごしています。


なんだか支離滅裂になってしまい本当にごめんなさい。

明日からは今までの書き方に戻る可能性大なのですが。

今回は、しっかり「ぼやきます」。[いい気分(温泉)]

「ごめんなさい」[もうやだ~(悲しい顔)]


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Twitterまとめ投稿 2019/07/12


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ゼロエミッション [ステーショナリー]



ウォーターマンコンバータータイプの万年筆インク

コンバーターとは



万年筆にインクを充てんするときにポンプアップの要領で上アイテムのインクを吸い上げ補充する。カートリッジタイプと違いプラスチックのemissionが発生しない。

書き味
インクの特性か、滑らかな書き心地である。色濃く鮮やかである。

弱点
油性インクまたはカーボン(鉛筆類)のように耐水性は若干ない。乾いてしまうと水がかかっても消えないようです。

万年筆という昔からのアイテムであり長年使われつづけてきましたがまだまだ筆記となるとその書き味、疲れにくさ、ゼロエミッションを考えた構造などから、現在においても使用される所以がある。

文字書きの一生ものになるかもしれませんよ。










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Twitterまとめ投稿 2019/07/11


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カーペンターズの悲劇 [傷跡]



カーペンターズ

生い立ち
カーペンター兄妹は、アメリカ合衆国コネチカット州のニューヘイブンで生まれた。リチャード・リン・カーペンターは1946年10月15日、妹カレン・アン・カーペンターは1950年3月2日生まれである。リチャードは父親の膨大なコレクションのレコードを聴き、ピアノの練習に熱心だった。一方カレンは親しみやすく外向的でスポーツを好んだが、兄と一緒に音楽を聴くことも多かった。
1963年6月、両親のハロルドとアグネスは家族を連れてカリフォルニア州ロサンゼルス郊外のダウニーに移り住んだ。リチャードを音楽業界へ近づけることと、カレンと父がニュー・イングランドの厳しい冬を嫌ったための移住であった。同年の秋からリチャードはダウニー高校へ通い、体育の代わりにバンドを選択科目とした。後のカレンも、これを参考にして選択を体育から音楽に変更した。音楽教師のブルース・ギフォードは、リチャードが「ラプソディ・イン・ブルー」を指示されて演奏するのを聞いて、リチャードのピアノ奏者としての才能を認めた。
翌年度からリチャードはカリフォルニア州立大学ロングビーチ校へ通い、将来の作曲パートナーとなるジョン・ベティスと出会った。ベティスの協力のもとに、リチャードはやがて「トップ・オブ・ザ・ワールド」、「愛にさよならを」、「オンリー・イエスタデイ」といったヒット曲を生み出していく。またリチャード・カーペンター・トリオでベースやチューバを演奏することになるウェズリー・ジェイコブズや、1966年にクリスマス・ソングのスタンダード「メリー・クリスマス・ダーリン」を共作するフランク・プーラーらと知り合ったのもこの学校でのことである。
カレンは、1964年にダウニー高校へ入学し、ドラム演奏の才能を見せはじめた。カレンは、運動は好きだが体育の授業は嫌いだったと述べている。カレンは体育から逃れるため、カリフォルニア州立大学学生であったリチャードに、やはり同様に体育からマーチング・バンドを選択できるように、教師を紹介してもらい[9]、結果、ダウニー高校マーチング・バンドの一員となることを認められた。1963年、リチャードを教えていた教師のブルース・ギフォードは、カレンにグロッケンシュピールを担当させたが、カレンは気に入らなかった。あるインタビューでカレンは、「演奏に不便で運びにくく、バンドの演奏よりも常に4分の1音高い音を出すことなどに苛立っていた」と述べている]。
その後間もなくカレンは、友人でありバンド仲間のフランキー・チャベスからドラムの演奏を勧められ、チャベスのセットを借りてドラムを教わった。「基礎から始めて2人で何時間も練習したのだろう」とリチャードは語っている。1964年に両親からラディックのドラムセットを買って貰ったころには、カレンの腕前はプロ並みに上達しており、リチャードが後年のドキュメンタリー『リメンバー・ザ・カーペンターズ』 ("Close to You:Remembering the Carpenters") で語っているところによれば「エキゾティックな拍子記号の列を叩き出せるほどになっていた」という。
(quotation from Wikipedia)

しかしカレンの思いはカーペンターズの主役は兄リチャードであるとの思いが、自分がドラムをたたきながらボーカルを務めるという表舞台に何かしら不自然さを感じていた。
兄リチャードはそれがカーペンターズの姿であると考えていた。

カレンの葛藤が次第に強くなる。

「主役はリチャード、私はわき役...」

ヒット曲がチャートを上り詰めトップになればなるほどその思いは強くなっていった。

そしてカレンは食事すら満足に取れないようになってしまった。

1980年代初頭
1979年、リチャードはカンザス州のリハビリ施設で薬物依存症からの回復を試みる。その間にカレンはニューヨークに渡って、プロデューサーにフィル・ラモーンを迎えた初のソロ・アルバムの制作を決意する。彼女はこのアルバムのためにより大人向けでディスコ調の作品を選び、これまでのイメージを払拭しようと努めた。だが、1980年の初頭に完成したソロ作品に対し、リチャードやA&Mは難色を示した。カレンにとっては不幸なことに、このアルバムは発表しないものとする決定が下され、この作品の制作費として印税から50万ドル以上の負債を請求されたのである。この決定に怒りを覚えつつも、ある面では慣れぬ仕事から解放されたカレンは、依存症から立ち直った兄と新しいアルバムの制作にとりかかる。お蔵入りになったカレンのソロ・アルバムは1996年10月に『遠い初恋』としてリリースされるまで未発表だったが、録音された楽曲のうち4つは1989年のカーペンターズのアルバム『愛の軌跡〜ラヴラインズ』の中で陽の目を見た。その際に「イフ・アイ・ハド・ユー」はシングルとしてリリースされ、アダルト・コンテンポラリー・チャートで20位以内にランクインした。
カーペンターズは1980年に『Music』と題されたテレビの特番に出演し、エラ・フィッツジェラルドやジョン・デヴィッドソンをはじめとする著名なゲストと共演した。これはカレンがトム・バリスと結婚したのと同じ年に撮影されたもので、この時期のカレンは比較的健康な体重を取り戻していた。
1981年6月16日にリリースされたカーペンターズのデュオとしての次なるLP『メイド・イン・アメリカ』は、商業的には失敗に終わった。この作品はアメリカでは、カレンが亡くなる1983年初頭までは20万枚ほどしか売れていなかった。しかしながら、アルバムからシングル・カットされたロマンティックな「タッチ・ミー」はHot100で16位まで上昇し、全米ポップ・チャートにおける彼らの最後のトップ20ヒットシングルとなった。この曲はビルボードのアダルト・コンテンポラリー・チャートでは彼らにとって15番目の首位記録作品でもある。
カレンのトーマス・ジェイムズ・バリスとの結婚や、彼女が患っていた拒食症などの個人的な問題は、グループの復帰に暗い影を落とした。瞬く間に恋に落ちたあと、カレンは不動産業者のバリスとの結婚式をビバリーヒルズ・ホテルのクリスタル・ルームで盛大に行った。1980年の8月31日に挙げられたこのセレモニーの中で、カレンは翌年に「タッチ・ミー」のカップリングとしてリリースされる、リチャードとベティスが書き下ろした楽曲「ウエディング・ソング」を披露している。
だが、結婚してから1年ほどの間に、彼女の容姿は変わり果てていった。『メイド・イン・アメリカ』の販売促進用に制作されたビデオで窺えるその姿は、もはや彼女が重病人であったことを裏付けるのに十分な証拠といえるものであった。カレンとバリスの結婚生活は惨憺たるものであり、彼らは1981年の終わりには別居する。1982年、カレンは障害の診療を受けるためニューヨークの著名な心理セラピスト、スティーブン・レベンクロンを訪ね、この年の11月には仕事に復帰して離婚手続きを完了するためにカリフォルニアへ戻った。カレンの甲状腺は通常のものであったが、新陳代謝を加速するために甲状腺の薬を通常の10倍服用していることが分かった。これに加えて大量の下剤(日に90錠から100錠)を服用していたことが、彼女の心臓を弱める原因となった。
(quotation from Wikipedia)

あれほど運動好きで健康的だったカレンが病に侵されていく。

カレンが病弱になればなるほどその歌声は澄通り繊細で美しくなっていくのだがそれはただの矛盾でしかなかった。

そしてカレンは若くしてこの世を去った。


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Twitterまとめ投稿 2019/07/10


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ウルトラマンのカラータイマーについて [考察]

ウルトラマンのカラータイマーについて考察してみる。

ウルトラマンの地上での活動時間はハヤタ隊員がウルトラマンに変身してから、3分と決められて(制限がある)いる。

3分という時間についてであるが、カップ麺のゆであがり時間も3分間というのが定番となっている。

人が空腹を我慢してマテル時間の限度が3分間であることから逆算して3分という時間ができたらしい。

それは置いといて、ウルトラマンについてに戻るが、ウルトラマンはM-78星雲の生まれである。当然重力も、気温も湿度も違うに違いない。

ウルトラマンはそこで生まれ育ってきた。その環境の中で生きてきた。

そこでは活動のリミットが3分では生き甲斐も生れてこないであろうから当然もっと時間的には余裕があったに違いないと思われる。

地球上の環境(昭和40年代)では環境、重力関係などなど相対的にウルトラマンの身体が怪獣と戦うには3分というリミットになってしまうのだろう(重力、気温、湿度などの関係から)。

またしかし、なぜカラータイマーは胸の位置についているのだろうか?

自分ではよく見ることはできない位置に?敵怪獣にはよく見られてしまう。

点滅が始まると「もうそろそろエネルギーがなくなるよ」サインを何故か敵に示しているのである。

ウルトラマンも苦しかろうが、最後のエネルギー(確か原子エネルギー)を振り絞ってスペシウム光線で一撃するのではあるが...。

これに関してカラータイマーの点滅で相手の気をひき相手怪獣の集中が少し崩れたところで、一撃を入れる?

つまり「柔道技的な役割」をカラータイマーが行っているのではと考える。偶然だと思えるが。

制限時間内に一本を取る柔道になぞらえることができるのではないだろうか。


「ウルトラマン 空想特撮シリーズ」日本の特撮テレビ番組(カラー)。

ウルトラマン

脚本
金城哲夫 ほか
監督
円谷一 ほか
出演者
小林昭二
黒部進
石井伊吉
二瓶正也
桜井浩子 ほか
ナレーター
石坂浩二
浦野光
オープニング
「ウルトラマンの歌」
製作
制作
TBS

放送
音声形式
モノラル放送
放送国・地域
日本
放送期間
1966年7月17日 - 1967年4月9日
放送時間
日曜 19:00 - 19:30
放送枠
タケダアワー
放送分
30分
回数
39

特記事項:
カラー放送(但し、当時、カラー放送を実施していない一部のネット局は白黒放送)
表示
『ウルトラマン』は、その劇中に登場する巨大変身ヒーローの名前である。
後続作品のヒーローと区別するために本作のウルトラマンを「初代ウルトラマン」と呼ぶ場合がある。
制作はTBSと円谷プロダクション。
1966年(昭和41年)7月17日から1967年(昭和42年)4月9日の間にTBS系で毎週日曜日19:00-19:30に全39話が放送された。
武田薬品の一社提供枠「タケダアワー」内で放送。TBSにて最初にカラーで放送された特撮テレビ番組でもある。『ウルトラQ』放送中の1966年4月1日に、初めてマスコミに公開された。
『ウルトラマン』に続いて放送された一連の番組、および、その劇中の巨大変身ヒーローは「ウルトラマン」と総称される場合がある。種族としてのウルトラマンについては別項を参照。
本作は漫画や劇場用映画、小説、テレビゲームなどでメディア展開されている。本項では最初に制作されたテレビ作品を中心に記述する。
(quotation from Wikipedia)

当時を思い出してみると自分の周りにはものらしきものはほとんどなく、人がたくさんいた。つまりウルトラマンの番組を食い入るようにして見る子供たちがたくさんいたのである。

今、先進国は超少子高齢化の時代である。ウルトラマンを作り出しTVで放送しようという悪戦苦闘のカラータイマーは消灯している。

本当に大変な時代においてウルトラマンのカラータイマーが見られないのは...。[TV]




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Twitterまとめ投稿 2019/07/09


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Fashion!! [ステーショナリー]



現在の万年筆の原型はエジプトのファーティマ朝カリフであるムイッズが衣服と手を汚さないペンを欲したことから、953年に発明された。
その後、1809年9月23日、イギリスのフレデリック・バーソロミュー・フォルシュが、特許を取得したのが最初,イギリスのジョセフ・ブラーマーも7つの特許を取得した。ブラーマーの特許の中には鉄ペンの着想もあり、「fountain pen」(英語で泉のペンの意)の名称を初めて用いている。1819年には、リューイスが2色の万年筆を開発している。また、パーカーが1832年に、てこを利用した、自動インク吸い取り機構を開発した。
その後の1883年に、アメリカの保険外交員ルイス・エドソン・ウォーターマンが、調書にインクの染みを作ってしまい、契約を取り逃がしたことを切っ掛けとして、毛細管現象を応用したペン芯を発明したことが万年筆の基礎となった。
日本では江戸時代以前「御懐中筆」の名で万年筆の前身らしきものが既に発明されていた。万年筆が日本に入ってきたのは、1884年、横浜のバンダイン商会が輸入し東京・日本橋の丸善などで販売された。当時は後半部分がほぼ英名の直訳である「針先泉筆」と呼ばれており、「萬年筆」と命名したのは、1884年に日本初の国産万年筆を模作した大野徳三郎と言われている[5]。大元堂の田中富三郎が万年筆の日本での普及に努めた。しかし、末永く使える、という意味で、「万年筆」の訳語を与えたのは内田魯庵というのが通説である。日本の万年筆製造は第一次世界大戦後に盛んになり、統計上は不詳であるが1940年にはピークを迎え、世界第2位の輸出国となっている。1950年代および2010年代には年間およそ1000万本前後が日本から輸出されている。

(quote from Wikipedia)






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