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ピンチはチャンス [音楽的発想]

きっかけほど大切なものはない[黒ハート]Never As Good As The First Time.[黒ハート]


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Carpenters [音楽的発想]

昨日までは寂しかったけれど...[黒ハート]Only Yesterday[黒ハート]


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SADE [音楽的発想]

二人の間に何もないなんて...Nothing Can Come Between Us...[黒ハート]


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YMO「テクノポップ」 [音楽的発想]

昔々
ちょっと昔

YMO(イエロー・マジック・オーケストラ)というグループが結成されました。

コンセプトは、東洋の音楽のイノベーション。「テクノポップ」の誕生であります。
今まで聞いたこともない音楽。今まで見たこともないビジュアル。今までの日本のバンドに無かったグローバル性を持つグループであった。

私がちょうど高校3年生の時(昭和52年頃・1980年代)友達が「いえろーまじっくおーけすとらがレコード出した」の情報から始まった。

当時海外のロックグループ。例えばレッドチェッペリン、ディープパープルのロックから派生してキングクリムゾン、イエスなどのプログッレシブロックが出たと思うとロンドンからパンクロック
セックスピストルズ、クラッシュなどのパンクロックが誕生し変化の勢いは収まらずディーボ、クラフトワークのテクノポップが生まれた。

シンセサイザー、シンセベースなどを多用したSF的なサウンドが特徴。
電子楽器のテクノロジーを多用した最も初期のヒットは、1972年のホットバターとポップコーン・メイカーズの競作となった『ポップコーン』である。同曲はビルボード・チャートで第9位まで上昇する大ヒットとなり、日本でもスマッシュ・ヒットした。またジョルジオ・モロダーが制作したチッコリー(欧米ではチッコリー・ティップ)の1972年のヒット『恋の玉手箱』(Son of My Father)も最新の電子楽器を使用していた。ほかに、後に大きな存在となるクラフトワークが1974年に『アウトバーン (アルバム)』を発表した。この時期にはまだ「テクノポップ」という語は使われなかった。
英米では日本のテクノポップに似たスタイルのポピュラー・ミュージックは、シンセポップ(Synthpop)、エレクトロ・ポップと呼ばれていた。コンピュータやMIDI機器を用いて制作した音楽は特に「コンピュ・ミュージック」と呼ばれた。来日したミュージシャンが、「テクノポップ」という言葉を知らなかったという例は多い。また、欧州においては、“TECHNO POP”は異なる意味で使われていた[2]ともいう。
日本では1978年後半からイエロー・マジック・オーケストラ(YMO)の大ブームが起こり、それを追うように「テクノ御三家[3]」が登場し、テクノポップ・ムーブメントというべき状況が起こった。
1980年代後半から、世界的に流行したダンス・ミュージックのスタイルにテクノやハウスがある。アシッドハウス、デトロイト・テクノという一連の流れから生まれたものであり、日本のテクノポップと直接的なつながりはないとされる。

1970年代末から80年代前半

史上初のリズムマシン、Roland TR-808(1980年)。YMOは発売前のプロトタイプ機を使用していた

テクノポップブーム後期からバンドブーム期にかけて使用された代表的なシンセサイザー、YAMAHA DX7(1983年)
テクノポップという言葉は、1978年、大阪で『ロック・マガジン』を発行していたロック評論家の阿木譲が、クラフトワークのアルバム『人間解体』のレビューで使ったのが初出とされている。この造語を気に入った坂本龍一がさまざまな媒体に出演して使ったことにより、一般に広まったといわれている。
1980年ごろYMOブームが起きると、YMOに続く「テクノ御三家」としてP-MODEL、ヒカシュー、プラスチックスが紹介された。プラスチックスはファッションデザイナーらによって結成されたバンドで、のちのバブル期の日本を先取りしたような「軽さ」をうち出していた[9]。演劇畑出身のヒカシューは、クラフトワークの『モデル』を能・狂言のような邦楽的な歌唱法でカバーした。その後、巻上公一とヒカシューはテクノ・ポップの枠にとどまらず、前衛音楽・前衛ロックの分野へと、大きく羽ばたいていった。P-MODELはもともとブラック・サバスとキング・クリムゾンに影響を受けたプログレバンドのマンドレイクが、電子音とバンドサウンドを同期させたスタイルに転じたものであった。彼らに共通しているのは電子楽器の使用だけでなく「軽さへの指向」である。テクノポップは、日本にとって1970年代の文化の暗さや重さ(例えば劇画が代表的である)から脱出するための一つの方法論であった。 
ブーム期のテクノポップ・バンドとしては他に、「恋のベンチ・シート」をヒットさせたジューシィ・フルーツ(ヒカシューと同じく近田春夫がプロデュースしている)、小川美潮が在籍したチャクラ、大橋純子&美乃家セントラルステーションでファンク曲を作曲したこともある土屋昌巳の一風堂などがいた。高木完やサエキけんぞうもテクノ・ポップ・グループを結成したが、ラジオではオンエアされず、不発に終わってしまった。
また、アイドルや芸能人による『テクノ歌謡』もリリースされた。これらの曲の一部は、坂本龍一、細野晴臣、高橋幸宏などがプロデュースしている[11]。
ブームを担った中核的なレーベルとしては、YMOや戸川純らが在籍したアルファレコードの¥ENレーベルなどがある。
この頃来日したクラフトワークは「テクノポップ」と言う言葉を気に入り1983年にリリースを予定したアルバムタイトルを『TECHNO POP』と題したがお蔵入りとなり、1986年に『エレクトリック・カフェ』と改題してリリースした[13]。この中に「TECHNO POP」と題する曲が収録されている。バグルスは1979年に『ラジオスターの悲劇』のヒットを出したあと、1980年に発表したシングル「CLEAN CLEAN」のB面に「TECHNOPOP」という曲を収録しており[14]、アルバム『THE AGE OF PLASTIC』の1999年リマスター版にも追加収録されている。80年代前半の欧米では、ゲイリー・ニューマン、M、リップス、ヒューマン・リーグ、ソフト・セルらが「シンセ・ポップ」の全米ヒットを送り出した。ゲイリー・ニューマン『カーズ』、M『ポップ・ミュージック』、リップス『ファンキー・タウン』、ヒューマン・リーグ『ドント・ユー・ウォント・ミー』、ソフト・セル「テインテッド・ラブ』、OMD『エノラ・ゲイの悲劇』などは、当時の代表的なヒット曲である。ヤーブロウ&ピープルズの『ドント・ストップ・ザ・ミュージック』(1981)はヴォーカルがソウルフルなため、テクノというよりも、R&Bグループがテクノを取り入れたものと、とらえた方がいいと言えるだろう。

(quotation from Wikipedia)

まず「イエローマジックオーケストラ」がリリースされたがセールスは今一つ。マーケティングが知名度がなかったので売れなかった。



火が付いたのはアメリカのボトムライン(ライブハウス)で演奏をしてから。東洋の神秘巨人「イエロー・マジック・オーケストラ」の誕生となる。




ブームはアメリカでまず起こった。それから日本に逆輸入という形で徐々にその知名度は広がっていったのである。









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What's Going On [音楽的発想]

20代の頃、港から夜になって帰る車の中。
カーステレオのFMで、ふと聴いた。

「What's going on?  What's going on?...」
「どうなっているんだろう?どこへいくんだろう?...」
なんて、歌詞である。

そのときの、自分の心境そのものであった。

未だ、答はつかんでいないままである。






my choice




首都ワシントンD.C.にて、ペンテコステ派の説教師であった父マーヴィン・シニアと母アルバータ(旧姓クーパー)のもとに生まれる。出生名はマーヴィン・ペンツ・ゲイ・ジュニア(Marvin Pentz Gay, Jr.)。地元の教会で聖歌隊に参加したことがシンガーとしての第一歩である。歌と同時にピアノやドラムといった、いくつかの楽器の演奏技術も習得し、音楽の下地を養った。しかし、音楽に没頭するきっかけは、厳格な父による躾の範囲を越えた精神的虐待であった。これが後の彼の人生にトラウマとして遺ることとなった。
学業を終え、空軍に入隊・除隊した後にドゥーワップ・コーラスグループ「マーキーズ」の一員として活動を開始する。いくつかのグループを渡り歩くうちに実力をつけた彼は、デトロイトで公演した際に、モータウンレコードの社長であるベリー・ゴーディ・ジュニアにその才能を見出され、同レーベルでソロシンガーとしてのキャリアを踏み出すこととなる。このプロデビューの頃、姓の表記を「Gay」から「Gaye」に変更した。
モータウンに所属していた初めのうちはドラマーとしても活動しており、同レーベルに属した優れたスタジオ・ミュージシャンとの親交を深めた。この経験は後に、楽曲を制作する際に、適材適所で、ミュージシャンを起用し、演奏者の技術を最大限に引き出すという点に生かされていくこととなる。特にベーシストであるジェームス・ジェマーソンは彼の作品に大きな貢献を果たし、数々の作品を生み出すこととなる。やがて、ソロシンガーとしていくつかの作品を出すうちに、少しずつシングルの売上も伸び始め、また、社長の実の姉であるアンナと結婚したことも弾みとなってか「悲しいうわさ[1]」、「キャン・アイ・ゲット・ア・ウィットネス」、「プライド・アンド・ジョイ」「ハウ・スウィート・イット・イズ」「アイル・ビー・ドゴーン」などのヒット曲を生み出した。ナット・キング・コールの洗練とゴスペルの影響を受けたサム・クックやジャッキー・ウィルソンの力強さを兼ねそろえた彼の資質は、モータウン所属の歌手の中でも、高い人気を得ることとなった。
特に1960年代の中期で彼の人気を決定付けたのは、同レーベル所属歌手のタミー・テレルとのデュエットである。息の合った二人のデュエットは高い人気を誇り、「エイント・ノー・マウンテン・ハイ・イナフ」や「エイント・ナッシング・ライク・ザ・リアル・シング」「ユア・プレシャス・ラヴ」などの曲を数多く世に送り出した。また、69年にはソロとして「悲しいうわさ」の大ヒットを放った。
しかし、1970年にテレルが脳腫瘍により24歳で夭折したことがきっかけで、一時期音楽活動を休止してしまう。パートナーであった彼女の不在と共に、刻々と変化する時代に対して、自分が今までの持っていた音楽性に疑問を持ち始めたことも大きな要因であった。やがて、ベトナム戦争から復員してきた弟フランキーと再会したことをきっかけに、また新たな音楽性を示すこととなる。
1971年1月、シングル「ホワッツ・ゴーイン・オン」を発表。この曲の成功を受けて、同年5月に同名のアルバム『ホワッツ・ゴーイン・オン』を発表する。華麗で美しい楽曲と隙のない緻密なアレンジによる音楽性は絶賛を受け、シングル・カットされた「マーシー・マーシー・ミー」もヒットを記録する。アルバムには他に「インナー・シティ・ブルース」が収録されていた。音楽以上に人々に衝撃を与えたのは、このアルバムが、ベトナム戦争や公害、貧困といった社会問題を取り上げた歌詞と、それに対する苦悩を赤裸々に表現したマーヴィンの歌唱であった。当時、シングル盤が中心であった黒人音楽の世界に、一つのテーマ、特に社会情勢などを元にしたコンセプト・アルバムを制作することは画期的なことだった。またこのアルバムの内容についてモータウンは消極的な態度だったが、マーヴィン自身がセルフ・プロデュースという制作体制で望んだことも注目を集めた。自分の感じたままのことを干渉されずに作品にまとめ上げるというこのセルフ・プロデュースの姿勢は、同世代に活躍した黒人ミュージシャンに大きな影響を与えた。マーヴィンの行動に触発されたダニー・ハサウェイやスティーヴィー・ワンダー、カーティス・メイフィールドなどのアーティストが、より自分の才能で個人的世界を音楽に反映し、意欲的で充実した作品を生み出すことになった。彼らの音楽は「ニュー・ソウル」と呼ばれた。また、ニュー・ソウルは80年代のアレクサンダー・オニールら次世代の黒人アーティストにも受け継がれていった。
さたにマーヴィンは、より私小説的な内容の作品を数多く生み出していく。72年にはサントラ盤『トラブル・マン』を発表。恋人への愛情と性への欲求を表現した『レッツ・ゲット・イット・オン』(1973)、孤独と愛への欲求を表した『アイ・ウォント・ユー』(1976)などの充実したアルバムが制作・発表された。だが、やがて先妻との泥沼の離婚調停や二度目の結婚生活の破綻、自身の薬物依存などが原因で70年代後半は、公私共に低迷していった。それでも77年には、ディスコ風の「黒い夜(Got to Give It Up)」がかなりのヒットになった。『ヒア・マイディア』(1978)は離婚の一部始終を、ぶちまけたアルバムだった。ライター、マーク・ラパポートは、このアルバムを10年以上聴き続けたという。

(quotation from Wikipedia)

[カチンコ]


Rapture [音楽的発想]

言わずとしれた「ブロンディー」であるが、この曲はあまり知られていない。
高校の時(一番多感だったのかもしれない)深夜放送のFMで聴いた曲である。
「ブロンディー」にしてはジャジーな大人っぽい曲となっている。
「ベース」がこれまた同じリフをくり返している。
淡々としていて「乗り」を作っている。
これに「デボラハニー」のアンユイなボーカルが絡み合っている。
ちょっと「ミステリアス」な感じにも受け止められる曲である。
くり返して聴いているうちに改めて良さがわかるような気がする。
この曲も個人的に好きである。



my choice


KOOKOO
DEBBIE HARRY

program

1.JUMP JUMP 4:02
(Debbie Harry/Chris Stein)

2.THE JAM WAS MOVING 2:58
(Nile Rodgrers/Bernard Edwards)

3.CHROME 4:14
(D. Harry/C.Stein)

4.SURRENDER 3:35
(N. Rodgers/B. Edwards)

5.INNER CITY SPILLOVER 4:57
(D. Harry/C. Stein)

6.BACKFIRED 4:52
(N. Rodgers/B. Edwards)

7.NOW I KNOW YOU KNOW 5:35
(N. Rodgers/B. Edwards)

8.UNDER ARREST 2:58
(D. Harry/C. Stein/N.Rodgers/B. Edwards)

9.MILITARY RAP 3:47
(D. Harry/C. Stein)

10.OASIS 4:55
(D. Harry/C. Stein/N. Rodgers/B. Edwards)



[るんるん]

1974年、ガールズ・バンド「スティレットーズ」に所属していたデボラ・ハリーと、バックバンドにいたクリス・シュタインが中心となって結成された。「ブロンディ」というバンド名は通りがかりのトラックの運転手がハリーにかけた言葉("Hey Blondie"=「よぉ、ブロンドのお姉ちゃん」)に由来する。1975年にはハリー、シュタイン、クレム・バーク、ジミー・デストリ、ゲイリー・バレンタインというメジャーデビュー時のメンバーが揃い、CBGBなどのニューヨークの有名クラブに出演することで徐々に地元で人気を獲得していく。
1976年にデビュー・アルバム『妖女ブロンディ』発表。直後にバレンタインが脱退(ただし、次作にも曲提供している)し、フランク・インファンテが新ベーシストとなるが、間もなく元シルヴァーヘッドのナイジェル・ハリスンがベーシストとして加わったため、インファンテはギターに持ち替えた。
1979年、シングル曲「ハート・オブ・グラス」のヒットにより一躍、人気バンドになる。ハリーはセックス・シンボルとしても大いに注目されるようになる。1980年、ハリーとジョルジオ・モロダーが共同で作詞作曲した「コール・ミー」は、映画『アメリカン・ジゴロ』に提供され、米英でナンバーワン・ヒットとなった。途中メンバーのソロ作制作もはさみながら活動を続けたが、シュタインがまれな自己免疫疾患である 尋常性天疱瘡にかかっていることが判明。ハリーはシュタインの看病に当たることを決め、バンドは1982年に解散した。
1981年、映画007 ユア・アイズ・オンリーの主題歌候補として「For Your Eyes Only」(詞も曲も異なる)を歌うが、最終選考でシーナ・イーストンに敗れた。

(quote from Wikipedia.)




現代Young Song分析 [音楽的発想]

日本の、いや世界のYoung Songを聞いてみてある共通点を見つけ出した。

それは?

「原始時代帰り」の結論である。

何故かって?言葉のノリが部族の音楽のイメージ。

つまり、リズム的に、部族祝いの踊りのような縦方向に乗る感じがするのである。


1980年代Swing Jazzの流れを汲んで横揺れ的な音楽がはやった。ゆらゆらした感じの心地よい音楽である。

しかし、1990年代Lapの登場で旋律が単純化され横揺れから、点・点的に。うまく言えないが柔らかいPulseを奏でだした。

2000年代に入るとそのPulseをうまくつなげて独特の旋律が生まれる。文明発達の初期段階の(primitive) 未開で野蛮な(uncivilized)部族の音楽に戻りつつ来つつ推移していく。

時代は循環するものとされる。

ちょうど今、ケチャダンスのような感じのリズム旋律に聞こえてくるのである。

バリ島の伝統的な舞踏、サンヒャンは、疫病が蔓延したときなどに初潮前の童女を媒体にして祖先の霊を招き、加護と助言を求めるものであった。これに対して現在のケチャは、『ラーマーヤナ』の物語を題材とする舞踏劇の様式で演じられている。こうしたケチャの「芸能化」がすすめられたのは、1920年代後半から1930年代にかけてバリ人と共にバリ芸術を発展開花させたドイツ人画家、ヴァルター・シュピースの提案によるものであった。シュピースは、1920年代後半からウブド村の領主チョコルド・グデ・ラコー・スカワティに招かれてウブドに在住した画家・音楽家であり、現地の芸術家と親交を結びながらケチャやバリ絵画などの「バリ芸術」を形作っていった。ある著名なバリ人舞踏家がサンヒャン・ドゥダリの男声合唱にバリス舞踊の動きを組み込ませたのを見たシュピースは、ガムランの代わりにこの男声合唱のみを使って『ラーマーヤナ』のストーリーを組み込んだ観賞用の舞踊を考案するよう、提案したのである。

(a quotation from the Wikipedia)

どうでしょう。「未開拓」な説でしょう。[いい気分(温泉)]



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Maniac [音楽的発想]

躍動感
「ダンス」



my choice





JOJO [音楽的発想]

こんな曲を聴いていたのを思い出しました。
秋の夜長に、ベランダで月を見ながら聞いていました。



my choice


Boz Scaggs
Middle man

Produced and engineered Bill Schnee

Principal Musicians
David Foster(RCA Records) All keyboards and synthesizers
David Hungate Bass
Steve Lukather Guitars
Rey Paker Jr. (Arista Records) Guitar
Jeff Porcaro Drums


1.Jojo

2.Breakdown Dead Ahead

3.Simone

4.You Can Have Me Anytime

5.Middle Man

6.Do Like You Do In New York

7.Angel You

8.Isn't It Time

9.You Got Some Imagination


1980 Sony Music Entertainment Inc.





Psycho Killer [音楽的発想]

高校の時「TALKING HEADS」を初めて聴いた。
その当時既成のロックから、ちょっと外れた雰囲気(ニューウエーブ?)を感じるものであった。
この曲「Psycho Killer」での、「ベース」のPLAYERが特にかっこよかったので、アップしたいと思った。
「リズム感」「弦をはじくときのアタック感」「低音のうねり」
Simpleではあるがすばらしく完成度が高い。
とにかく個人的に好きである。

my choice



REMAIN IN LIGHT
TALKING HEADS

program

1.BORN UNDER PUNCHES (The Heat Goes On) 5:46

2.CROSSEYED AND PAINLESS 4:45

3.THE GREAT CURVE 6:26

4.ONCE IN A LIFETIME 4:19

5.HOUSES IN MOTION 4:30

6.SEEN AND NOT SEEN 3:20

7.LISTENING WIND 4:42

8.THE OVERLOAD 6:00

[コピーライト]1980 Sire Records Company.



トーキング・ヘッズは、ニューヨーク・パンクの拠点となったライブハウス「CBGB」出身のバンドで、1970年代半ばから1980年代後半にかけて活動した。メンバーは名門美術大学、ロードアイランド・スクール・オブ・デザインの出身で「インテリバンド」と呼ばれることが多く、初期はパンク・バンドとされていたが、ボーカルのデヴィッド・バーンがアフロ・リズムに傾倒し、それを大胆に楽曲に取り入れるようになると、ポスト・パンクとされるようになった。
バンドはデヴィッド・バーン(ボーカル、ギター)、クリス・フランツ(ドラム、バック・ボーカル)、ティナ・ウェイマス(ベース、バック・ボーカル)、ジェリー・ハリスン(キーボード、ギター、バック・ボーカル)の4人編成だが、1980年のアルバム『リメイン・イン・ライト』前後から、サポート・メンバーを大々的に起用し、ビッグ・バンド編成でライブを行うようになった。1981年からはライブの最中にバンド内バンド「トム・トム・クラブ」のコーナーを組み込むようになった。
バーンの都会的な神経症を連想させるボーカルやライブ・パフォーマンス(痙攣パフォーマンスとブカブカなシャツ)が特徴的で、歌詞は「家」や「心地良い(悪い)空間」をテーマにしたものが多い。また、楽曲製作では『リメイン・イン・ライト』製作時からインプロヴィゼーションの要素を取り入れている。
ジョナサン・デミによるライブの記録映画『ストップ・メイキング・センス』をはじめ、「ワンス・イン・ア・ライフタイム」や「ロード・トゥ・ノーウェアー」のミュージック・ビデオなど、映像作品の評価も高い。

(quote from Wikipedia.)


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