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お仕事履歴書「製本」編 [仕事]

大学生になった。夏休みになった。

アルバイトなるものをしたくなった。

求人情報誌をセブンイレブンで買った。まず自分の得意とするジャンルから「自転車屋」を選んだ。

電話をした。

「あなたの自転車に関する知識はどのようなものですか?」「タイヤのパンク修理ができます」

断られた。どうも自転車のレベルが少し自分のものと比べてランクが相当上だったらしい。

次に、製本業(本が好きであった)を探してみる。

「スイングジャーナル」製本業、所在地神田神保町。これに決めてみた。

断られるのを覚悟で恐る恐る電話した。

「OKです」「3か月ぐらい来てください」「賄いはあります」

決まった。

そもそもこの「スイングジャーナル」に目をひかれた。ジャズの音楽関係の分厚い情報誌である。

スイングジャーナル(Swing Journal)はスイングジャーナル社から出版されていた、主にジャズを専門とした月刊音楽雑誌。1947年に創刊され、約63年間海外の作品などをいち早く紹介するなど戦後日本のジャズ文化をリードしてきたが、2010年に休刊した。
スイングジャーナル誌の取り上げる音楽家やレコードなどの評論には定評があり、「スイングジャーナル・ジャズディスク大賞」なども発表していた。またオーディオ機器の評価記事も充実していた。日本のジャズ界の発展に大きく貢献した人に対して贈られる南里文雄賞も主催していた。
「別冊スイングジャーナル」と言う形で、音楽やオーディオ機器のムック本も多数、企画・出版していた。
ローリング・ストーンズのチャーリー・ワッツが、定期購読している。
(quotation from Wikipedia)

オーディオ好きであった私にとって自分が「スイングジャーナル」を 作れることに喜びを感じながら初出勤となった。

まず下宿からバイクで西船橋駅まで走る。そこから地下鉄東西線で秋葉原まで。そこから銀座線に乗り換え目的地神田神保町の工場まで徒歩15分。

こじんまりとした工場の階段を上がると工場長が出迎えてくれた。

ヘルメットと安全靴と作業着を借りて、まず工場内の案内を受けた。

すらりと製本マシーンが並んでいる。ソーター。エンジンフォークリフトと電動フォークリフト。裁断機。コンベアー。結束機。排紙圧縮機などなど。

全体の機械の流れ作業の説明を受けた後、実際に作業を行っているところを見学。

初日はそこまで。とても一日では覚えきらない複雑な工程を自分なりに頭の中へ入れていく。復習してみたりした。

その時自分の中では「スイングジャーナル」の文字は消えていた。製本業のアルバイト職員に変身していたのである。

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まず場内の清掃から仕事を与えられた。

流れを見つつ清掃を行う。

材料資材(印刷は他社で行ったものがトラックで搬入されれ来る)をエンジンフォークリフトで、ソーター(製本される紙をページ順に重ねていく機械)に通し、大まかな本の形へ。

ワイヤーでバラバラにならないように縫う。これが本の中身(実際に読むところ)になる。

表と裏表紙と背表紙は紙質が違うので別のトレー(フォークリフトで運ぶときはフォークの爪が荷の下に来るようパレットトレーに乗せてある)で折り曲げ糊付け両用機械の上部へセット。
中身と外側表紙をくっつけて本の形にする。これが製本のメイン工程である。

裁断機の所へ。テストパターンの部分をカットしなければならない。

裁断機には大きな赤いボタンが機械の両側へ2つついている。なぜなら下りてくるごつい刃に手指を落とされないようにフェイルセーフ

機械は壊れたときに、自然にあるいは必然的に安全側となることが望ましいが、そうならない場合は意識的な設計が必要である。たとえば自動車は、エンジンが故障した場合、エンジンの回転を制御できないような故障ではなく、回転が停止するような故障であれば、自動車自体が止まることになり安全である。このため、回転を止めるような故障モードへ自動的に(自然に)落とし込むような設計思想が、フェイルセーフ
飛行機の場合は、エンジンが回転停止した場合、墜落ということになりフェイルセーフとはならない。しばらくは滑空し無事着陸できるような機体設計にする、ETOPSを取り入れる、フォールトトレラントという別の思想が必要である。ヘリコプターのエンジン停止においては、オートローテーションという飛行方法により飛行機同様滑空して着陸することができる。
ヒューズは、過電流が流れた場合にヒューズ自身が溶けて壊れることにより、それ以上の過電流を止めて基板等の焼損や出火を防止する。この点で、ヒューズも一種のフェイルセーフであるといえる。
コンピュータシステムや操作している人間の不具合を検知するために、定められた周期に決められた信号を送り続け、相手側で信号の受信が無いと不具合をみなす仕組みをウォッチドッグタイマーやデッドマン装置と呼ぶ。
(quotation from Wikipedia)

のため両手を刃の外へ出して両手でボタンを同時に押さないと刃が下りてこないようになっていた。事故防止のためにここが一番危険な機械操作になるためフェールセーフになっている。

カットされたら「スイングジャーナル」の完成である。

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ここからが搬送工程に移る。

10冊積み上げられた本がコンベアーに流される。10冊約10㎏である。重いのでまたデリケートな本なのでコンベアーは滑車がついているのではなくコンプレッサーのエアで本を少し浮かせて滑らせるようになっている。

仕事が一通り分かったところで自分に与えられた役割はこのコンベアーから流れてくる10冊の束を保護用紙を挟んで結束機にかけ搬送用のパレットに積み上げることだった。

積み上げ方にはコツがある。フォークで運ぶときに約10束を10段崩れないように積み上げること。

重心が中へ中へかかるように、蛇がとぐろを巻いたような形状(自称とぐろ巻き)に積んでいく。

コンベアーからは製品がとめどもなく流れてくる。それを一気に積み上げてフォークでトラックに積んでもらう間休んでいる暇はない。時々機械がジャムして止まる以外は待ったなしである。

はじめはひとつづつ見ながら積んでいくしかないのであるが慣れというものがあってパレットを見ないでも流れてくる製品だけ目で追って感覚で位置を決めていくことができるようになっていった。スポーツの感覚である。

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そんなこんなでバイトの期間は過ぎ帰省する期限まで働いた。

工場長からは「もう少し続けてくれないか」と言われたが答えはNOだった。

バイト代とお礼にと「どれでも好きなの持って帰りなさい」と「スイングジャーナル」を渡していただいた。

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そんなこんなで帰省した私は「スイングジャーナル」を見ながら、自分の収入では買うことのできない「JBL」のスピーカーを横目に、一番最後のページに書いてある自分の働いていた製本社名を見てはなぜか照れてしまうのと「とぐろ巻き」のことを思い出すのであった。[晴れ]




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始めての私の仕事 [仕事]

かつて私は豆腐屋で働いていた。

豆腐を作る型を洗うのが私の仕事てある。もう一人同じ仕事をしていた友達がいた。

毎日おんぼろの赤いラッタタースクーターで職場に向かう。さほど遠くもなく若かったので通勤は町を通り抜けながら寒くても暑くても毎日通った。

豆腐屋の職員は年上のの方ばかりでやや緊張した面持ちで仕事していた。もう一人の相方もそうであるようだった。

最初は見習いから始まった。

とにかく作られる豆腐の型を2人でたわしで洗うのである。朝から夕方まで洗い続ける。周りのことはよくわからないままでひたすら型を洗い続けた。


2週間もしたところであろうか、工場長から「型に入れた豆腐を水槽に出してください」との命令が出た。

大きなプールのような水槽に豆腐を型から崩れないようにそっと出してやる。

水は冷たく豆腐は柔く型は大きく重く最初は崩れた。

割と回数を重ねるうちコツがわかってきた。真四角の豆腐が水槽にきれいに流し込めるのはうれしいものである。

時々人が足りない時にさせてもらったのだがかなり喜んでしていた。

相方は、あまり器用でないか型洗いの仕事から離れることはなかった。

2人並んで型を洗っていると、相方がつかれてきているのが私なりに分かった。

「A君、タバコ吸いに行こう」屋外に誘った。

2人は黙って休憩に入った。A君黙ってうつむき加減にタバコを吸っている。

屋外では、多量に出たおからがやまずみになっていたり、油揚げにするやや硬い豆腐の保冷庫があったりして雑然としていた。

2人で5分ばかりタバコを吸った後、また型を洗いに戻る。

そうこうしているうちに、私の仕事のバリエーションは増えていく半面相方のA君はひたすら型洗いの場から離れることはなかった。

1か月がたち2か月がたち体調が悪かったりした時もあるが毎日通った。

A君も頑張ってきていた。

昼は、給食の弁当を食堂のようなところで食べていた。

豆腐を崩れないようにパックに入れる仕事をしていたおばちゃんから、よく差し入れがあった。

「何歳なの?私より若いんだから漬物あげるから頑張ってやりなさいよ」

よく話をした。仕事のエネルギーに十分なった。

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3か月もしたところであろうか、豆腐屋の仕事から離れる時が来た。A君もである。

若かったが重労働のせいもありやめる時には内心ほっとしていた。

「よう頑張ったな~A君」

A君はいつものように黙っていた。

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それから私はまたほかの仕事に就きあれこれしているときに私の所にある知らせが届いた。

「A君、飛び降りたそうよ」

「......」

話を聞いたときあまりショックは受けなかったがあとからあとから、悔しいやら、悲しいやら、摂津無いやら、苦しいやらであった。

今でもあの少し汚れた長靴と前掛けの姿を思い出すと、泣けてくるのである。

「もう一回煙草に誘ってあげていれば...こんなことには...」

思い出すたびに悲しく泣いてしまうのだ。

30年以上も前の話である。

私の本当の仕事は何だったのだろうかと、いつも考えさせられる「私の初めての仕事」であったのである。
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