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カーペンターズの悲劇 [傷跡]



カーペンターズ

生い立ち
カーペンター兄妹は、アメリカ合衆国コネチカット州のニューヘイブンで生まれた。リチャード・リン・カーペンターは1946年10月15日、妹カレン・アン・カーペンターは1950年3月2日生まれである。リチャードは父親の膨大なコレクションのレコードを聴き、ピアノの練習に熱心だった。一方カレンは親しみやすく外向的でスポーツを好んだが、兄と一緒に音楽を聴くことも多かった。
1963年6月、両親のハロルドとアグネスは家族を連れてカリフォルニア州ロサンゼルス郊外のダウニーに移り住んだ。リチャードを音楽業界へ近づけることと、カレンと父がニュー・イングランドの厳しい冬を嫌ったための移住であった。同年の秋からリチャードはダウニー高校へ通い、体育の代わりにバンドを選択科目とした。後のカレンも、これを参考にして選択を体育から音楽に変更した。音楽教師のブルース・ギフォードは、リチャードが「ラプソディ・イン・ブルー」を指示されて演奏するのを聞いて、リチャードのピアノ奏者としての才能を認めた。
翌年度からリチャードはカリフォルニア州立大学ロングビーチ校へ通い、将来の作曲パートナーとなるジョン・ベティスと出会った。ベティスの協力のもとに、リチャードはやがて「トップ・オブ・ザ・ワールド」、「愛にさよならを」、「オンリー・イエスタデイ」といったヒット曲を生み出していく。またリチャード・カーペンター・トリオでベースやチューバを演奏することになるウェズリー・ジェイコブズや、1966年にクリスマス・ソングのスタンダード「メリー・クリスマス・ダーリン」を共作するフランク・プーラーらと知り合ったのもこの学校でのことである。
カレンは、1964年にダウニー高校へ入学し、ドラム演奏の才能を見せはじめた。カレンは、運動は好きだが体育の授業は嫌いだったと述べている。カレンは体育から逃れるため、カリフォルニア州立大学学生であったリチャードに、やはり同様に体育からマーチング・バンドを選択できるように、教師を紹介してもらい[9]、結果、ダウニー高校マーチング・バンドの一員となることを認められた。1963年、リチャードを教えていた教師のブルース・ギフォードは、カレンにグロッケンシュピールを担当させたが、カレンは気に入らなかった。あるインタビューでカレンは、「演奏に不便で運びにくく、バンドの演奏よりも常に4分の1音高い音を出すことなどに苛立っていた」と述べている]。
その後間もなくカレンは、友人でありバンド仲間のフランキー・チャベスからドラムの演奏を勧められ、チャベスのセットを借りてドラムを教わった。「基礎から始めて2人で何時間も練習したのだろう」とリチャードは語っている。1964年に両親からラディックのドラムセットを買って貰ったころには、カレンの腕前はプロ並みに上達しており、リチャードが後年のドキュメンタリー『リメンバー・ザ・カーペンターズ』 ("Close to You:Remembering the Carpenters") で語っているところによれば「エキゾティックな拍子記号の列を叩き出せるほどになっていた」という。
(quotation from Wikipedia)

しかしカレンの思いはカーペンターズの主役は兄リチャードであるとの思いが、自分がドラムをたたきながらボーカルを務めるという表舞台に何かしら不自然さを感じていた。
兄リチャードはそれがカーペンターズの姿であると考えていた。

カレンの葛藤が次第に強くなる。

「主役はリチャード、私はわき役...」

ヒット曲がチャートを上り詰めトップになればなるほどその思いは強くなっていった。

そしてカレンは食事すら満足に取れないようになってしまった。

1980年代初頭
1979年、リチャードはカンザス州のリハビリ施設で薬物依存症からの回復を試みる。その間にカレンはニューヨークに渡って、プロデューサーにフィル・ラモーンを迎えた初のソロ・アルバムの制作を決意する。彼女はこのアルバムのためにより大人向けでディスコ調の作品を選び、これまでのイメージを払拭しようと努めた。だが、1980年の初頭に完成したソロ作品に対し、リチャードやA&Mは難色を示した。カレンにとっては不幸なことに、このアルバムは発表しないものとする決定が下され、この作品の制作費として印税から50万ドル以上の負債を請求されたのである。この決定に怒りを覚えつつも、ある面では慣れぬ仕事から解放されたカレンは、依存症から立ち直った兄と新しいアルバムの制作にとりかかる。お蔵入りになったカレンのソロ・アルバムは1996年10月に『遠い初恋』としてリリースされるまで未発表だったが、録音された楽曲のうち4つは1989年のカーペンターズのアルバム『愛の軌跡〜ラヴラインズ』の中で陽の目を見た。その際に「イフ・アイ・ハド・ユー」はシングルとしてリリースされ、アダルト・コンテンポラリー・チャートで20位以内にランクインした。
カーペンターズは1980年に『Music』と題されたテレビの特番に出演し、エラ・フィッツジェラルドやジョン・デヴィッドソンをはじめとする著名なゲストと共演した。これはカレンがトム・バリスと結婚したのと同じ年に撮影されたもので、この時期のカレンは比較的健康な体重を取り戻していた。
1981年6月16日にリリースされたカーペンターズのデュオとしての次なるLP『メイド・イン・アメリカ』は、商業的には失敗に終わった。この作品はアメリカでは、カレンが亡くなる1983年初頭までは20万枚ほどしか売れていなかった。しかしながら、アルバムからシングル・カットされたロマンティックな「タッチ・ミー」はHot100で16位まで上昇し、全米ポップ・チャートにおける彼らの最後のトップ20ヒットシングルとなった。この曲はビルボードのアダルト・コンテンポラリー・チャートでは彼らにとって15番目の首位記録作品でもある。
カレンのトーマス・ジェイムズ・バリスとの結婚や、彼女が患っていた拒食症などの個人的な問題は、グループの復帰に暗い影を落とした。瞬く間に恋に落ちたあと、カレンは不動産業者のバリスとの結婚式をビバリーヒルズ・ホテルのクリスタル・ルームで盛大に行った。1980年の8月31日に挙げられたこのセレモニーの中で、カレンは翌年に「タッチ・ミー」のカップリングとしてリリースされる、リチャードとベティスが書き下ろした楽曲「ウエディング・ソング」を披露している。
だが、結婚してから1年ほどの間に、彼女の容姿は変わり果てていった。『メイド・イン・アメリカ』の販売促進用に制作されたビデオで窺えるその姿は、もはや彼女が重病人であったことを裏付けるのに十分な証拠といえるものであった。カレンとバリスの結婚生活は惨憺たるものであり、彼らは1981年の終わりには別居する。1982年、カレンは障害の診療を受けるためニューヨークの著名な心理セラピスト、スティーブン・レベンクロンを訪ね、この年の11月には仕事に復帰して離婚手続きを完了するためにカリフォルニアへ戻った。カレンの甲状腺は通常のものであったが、新陳代謝を加速するために甲状腺の薬を通常の10倍服用していることが分かった。これに加えて大量の下剤(日に90錠から100錠)を服用していたことが、彼女の心臓を弱める原因となった。
(quotation from Wikipedia)

あれほど運動好きで健康的だったカレンが病に侵されていく。

カレンが病弱になればなるほどその歌声は澄通り繊細で美しくなっていくのだがそれはただの矛盾でしかなかった。

そしてカレンは若くしてこの世を去った。


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焼夷弾発見 [傷跡]

昔々。ちょっと昔。

小学校3年生か4年生の時(昭和38年生まれ)に、実家の隣の田んぼに突き刺さった得体のしれないものを発見した。

最初は何であるかは全くわからなかった。何か不気味な感じがしたのをおぼえている。


父に報告に行った。父が確認しに行った。

「もう絶対に近づいてはだめだぞ!」

強く言われた。

岡山空襲(おかやまくうしゅう)は、第二次世界大戦中の1945年(昭和20年)6月29日の午前2時43分から午前4時7分にかけてアメリカ軍により行われた岡山県の岡山市に対する空襲のことである。計画段階では戦略爆撃だったが、ほとんど無差別爆撃として実行された。この空襲ではアメリカ軍の爆撃機・ボーイングB-29およそ140機が用いられ、空襲警報が出されず全くの不意打ちであったため死者が1737人にも及んだ。
(quotation from Wikipedia)


それは焼夷弾であった。

ちょうど田植えの時期である。田んぼには水が張っていただろう。

それが緩衝になって焼夷弾は爆奪せずに田んぼに突き刺さった。

実家との距離はほんの5~6mである。

20数年の時が過ぎ突き刺さった焼夷弾は後部の羽を田んぼの外へさらけ出していた。 

その後爆発物処理班が処理にあたり、「しんかん(起爆装置)」を取り外し撤去されたらしいが私はその様子を見ることはなかった。

「妥協」のできない事件である。

戦争の爪痕が生々しく残っていたのである。

私が切に望むのは恒久的な平和社会である。

もし仮に20年後の世界である子供が同じように爆弾の発見をするなどということは決してあってはならないことである。

ことさらであるが「妥協」などという選択肢はそこにはないはずである。

それは「命」にかかわることであるから。


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