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Twitterまとめ投稿 2019/06/07


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ジェネレーションギャップ [猫のび]

わかんない。わかんない。

今はやっているもの。わかんない。

地球規模で起こっている異常気象。わかんない。

技術的にどれほど今がハイテクなのか。わかんない。

もしかして、もしかして自分が相当おじさんになってしまったようだ。[いい気分(温泉)]

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よくわかるのが、自分がまだ相当若かったころ親の世代が若かった時の文化なんて想像つかないことである。

それと同様に、親が若かったころ自分から言うおじいちゃんおばあちゃんの若かったころの文化なんてわからなかっただえあろう。

産業革命(さんぎょうかくめい、英: Industrial Revolution)は、18世紀半ばから19世紀にかけて起こった一連の産業の変革と、それに伴う社会構造の変革のことである。
産業革命において特に重要な変革とみなされるものには、綿織物の生産過程における様々な技術革新、製鉄業の成長、そしてなによりも蒸気機関の開発による動力源の刷新が挙げられる。これによって工場制機械工業が成立し、また蒸気機関の交通機関への応用によって蒸気船や鉄道が発明されたことにより交通革命が起こったことも重要である。
経済史において、それまで安定していた一人あたりのGDP(国内総生産)が産業革命以降増加を始めたことから、経済成長は資本主義経済の中で始まったとも言え、産業革命は市民革命とともに近代の幕開けを告げる出来事であったとされる。また産業革命を「工業化」という見方をする事もあり、それを踏まえて工業革命とも訳される。ただしイギリスの事例については、従来の社会的変化に加え、最初の工業化であることと世界史的な意義がある点を踏まえ、一般に産業革命という用語が用いられている。
(quotation from Wikipedia)

が起こったのはちょうどおじいちゃん、おばあちゃんが若かったころ。

「モボ(モダンボーイ)・モガ(モダンガール)」なるものがはやったらしいと聞いている。

また、

工業化 一般的に定義すると、工業化は「農耕社会から産業社会、即ち農業を主体とする社会から工業主体の社会への転換」を意味するが、厳密な定義は困難である。しかし、概ね、人力や畜力を離れ蒸気力や電力といった非生物的な動力の採用と産業の機械化を決定的な契機として、社会全体の変化が引き起こされるという点で一致している。ただし工業化は必ずしも蒸気動力の導入以後に限定されない。
W.W.ロストウは工業化の決定的段階をもたらす条件として、1.生産的投資率の10%以上への上昇.2.製造業部門の高成長、3.経済成長を可能にする政治的、社会的、制度的枠組みの整備、の実現を挙げており、これらの条件を満たすことにより、工業化への離陸(テイク・オフ)が可能になるとされる。この工業化のプロセスの初期段階を一過性で個別的な歴史的事件と捉えた見方が「産業革命」である。
また工業化は近代化と極めて近い概念だが、近代化が民主主義などの政治的要素を含む概念なのに対し、工業化は技術的・経済的変化に重点を置いた見方である。その為、後発の発展途上国などでは工業化は進みながらも近代化が遅れている、という状況も生まれうる。なお、工業化も近代化も社会的な変化を含む、という点では共通している。
工業化を経験した社会では、農業などの第一次産業から工業などの第二次産業へと労働人口が移動する。労働人口の移動により、やがて農業部門の余剰労働力は底を突く(ルイスの転換点)。農業においても機械化は進行し、自給自足的なそれから市場的交換経済を前提としたものへと変化していく。それに伴い親族集団の解体と農村共同体の崩壊が進み、核家族化、大衆社会化などが進んでいく。また蒸気力の導入により、工場は川の傍という制約を離れ、労働力を確保しやすい都市近郊へと移り、都市化傾向に拍車を掛けることになる。

(quotation from Wikipedia)

ちょうど、お父さん、お母さん世代(私の歳を基準として)の話である。

とにかく働いて働いての時代である。あまり文化的には知られていない。

そして、IT革命そうした技術は戦後社会でスピンアウトした。計算機の開発と利用は典型である。1947年、AT&Tベル研究所のウォルター・ブラッテン、ジョン・バーディーン、ウィリアム・ショックレーらがトランジスタを発明。翌年に国際決済銀行の廃止が棚上げされたが、おそらくここで国際決済を中央銀行間でオンライン処理する技術が研究され始めた。そしてIBM社が1952年に初の商用のプログラム内蔵式コンピュータ IBM 701 を、1956年にやはり初のハードディスクドライブを発売している。同社は後にセデルという国際証券集中保管機関を積極的に技術支援する。
日本でも並行して技術開発が進む。1957年、日本電信電話公社の電気通信研究所で MUSASINO-1 が開発される。1959年、日本国有鉄道が日本初のオンラインシステムであるマルス1を導入する。
1964年、インテルサットが設立される。人工衛星を利用した国際通信の時代が到来。同年、コントロール・データ・コーポレーションが CDC 6600 を製造開始。これは世界で初のスーパーコンピュータとも言われる。そしてユーロクリアが設立された1968年は、ダグラス・エンゲルバートがマウスやウィンドウなどをデモンストレーション、さらにIBM 製オペレーティングシステム (OS) によるタグ検索システムFRESSが開発された。セデルの設立された1970年は、インテルが世界初の DRAMである Intel 1103 を発売した。セデルの決済業務は当初こそファクシミリを使用していたが、おそらく設立後数年で、IBM社の技術支援を受けてコンピュータを利用するようになった。
1973年、国際銀行間通信協会と全国銀行データ通信システムが稼動した。1976年、NECが TK-80 を発売。初期のマイコンとしてコンピュータを小型化する研究の起爆剤となった。1978年にはアメリカのシカゴで最初の電子掲示板「CBBS」が開設された。翌年、オラクル社が商用初の関係データベース製品である Oracle 2 をリリース。コンピュータネットワークにセキュリティシステムが実装された。
セデルでジェラール・ソワソンが変死した1983年、日本で家庭用ゲーム機のファミリーコンピュータ(任天堂)が発売された。パーソナルコンピュータ(パソコン)およびオペレーティングシステムについては、1984年に Macintosh (アップルコンピュータ)、翌年に Windows 1.0 (マイクロソフト)が売りだされた。また、1986年にインターネット技術の標準化を策定する Internet Engineering Task Force (IETF) が設立された。1973年から構想されていたダイナブックは1989年にダイナブック(東芝)で具体化される。こうして情報環境の開発が多角的に進んでゆく中、1990年代に産業はサービス化を加速させた。そして世紀をまたぐブラウザ戦争が起きた。
21世紀に入り、一定額を支払えば接続し放題となる定額制のブロードバンド回線やデータ通信端末、公衆無線LAN、携帯電話などの普及によって、常時インターネットに接触できる環境が整ってきており、情報技術が産業だけでなく個人にも広く浸透することとなった。この成熟した情報社会では、単にマルウェアを避けるというだけではなく、取得できる情報の性質が媒体により異なることを理解し、媒体を使い分けるための情報リテラシーが市民レベルで求められている。
(quotation from Wikipedia)

私の世代。今の世代である。


文化的には「ファッション」「音楽」「ゲーム」「スポーツ」「パソコン」などなど花開いている時代が来た。

が、その陰りが見え始めている。成功は収めたはずなのであるが。[右斜め下]

なぜなんだろう。[TV]

問題の本質は何なんだろう。[カチンコ] 



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Twitterまとめ投稿 2019/06/06


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なんなんだろう? [猫のび]

なんなんだろう?

ブログの「アクセス解析」のタブを開いてみるといろいろと書いてあるが自分では何がアクセスがされているのかさっぱりわからないのである。

それはともかく6月に入り梅雨かなと思っていたら「最高気温は31度です」と天気予報で伝えている。

気温すなわち大気温度は何の要因で上がったり下がったりするのであろう。

比熱を考えてみることにする。

昔々。ちょっと昔までは地表面は田んぼ、畑、あぜ道、池、川、木造家屋ちらほら、木の生い茂った山、子供たちが走り回っているなどなど(自分の2階の窓から眺めて見た様子をもとにしている)が存在していた。

比熱的には「低い」(徐々に太陽光で暖まり日が沈んだらじゅ所に温度が下がる)ものばかりであった。

現代どうだろう

24時間営業のスーパー、コンビニ、鉄筋コンクリートの会社、アスファルトで舗装された道路、数多くの車(大型車が増えた)、工事中の敷地、人の姿はまれなどなど。私が生きている範囲での変化(55年間)での出来事なので変化の速度は加速度的にも大きい。

比熱的には「高い」ものばかりであり夜明け前まで気温は低めで、日が昇り日差しが強まるとぐんぐん気温は上がり日が沈むと気温はすとんと下がる。

温度変化は自然の法則に従っているだけなのであろう。

今までの「あたりまえ」に頼らず、将来的なことをもう少しまじめに考えていくことが今の時点でできる最大の責任ある行動ではないかと思う。

相当頑張っていかなければならないのではないか。[グッド(上向き矢印)]


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Twitterまとめ投稿 2019/06/05


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Twitterまとめ投稿 2019/06/04


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Twitterまとめ投稿 2019/06/03


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YMO「テクノポップ」 [音楽的発想]

昔々
ちょっと昔

YMO(イエロー・マジック・オーケストラ)というグループが結成されました。

コンセプトは、東洋の音楽のイノベーション。「テクノポップ」の誕生であります。
今まで聞いたこともない音楽。今まで見たこともないビジュアル。今までの日本のバンドに無かったグローバル性を持つグループであった。

私がちょうど高校3年生の時(昭和52年頃・1980年代)友達が「いえろーまじっくおーけすとらがレコード出した」の情報から始まった。

当時海外のロックグループ。例えばレッドチェッペリン、ディープパープルのロックから派生してキングクリムゾン、イエスなどのプログッレシブロックが出たと思うとロンドンからパンクロック
セックスピストルズ、クラッシュなどのパンクロックが誕生し変化の勢いは収まらずディーボ、クラフトワークのテクノポップが生まれた。

シンセサイザー、シンセベースなどを多用したSF的なサウンドが特徴。
電子楽器のテクノロジーを多用した最も初期のヒットは、1972年のホットバターとポップコーン・メイカーズの競作となった『ポップコーン』である。同曲はビルボード・チャートで第9位まで上昇する大ヒットとなり、日本でもスマッシュ・ヒットした。またジョルジオ・モロダーが制作したチッコリー(欧米ではチッコリー・ティップ)の1972年のヒット『恋の玉手箱』(Son of My Father)も最新の電子楽器を使用していた。ほかに、後に大きな存在となるクラフトワークが1974年に『アウトバーン (アルバム)』を発表した。この時期にはまだ「テクノポップ」という語は使われなかった。
英米では日本のテクノポップに似たスタイルのポピュラー・ミュージックは、シンセポップ(Synthpop)、エレクトロ・ポップと呼ばれていた。コンピュータやMIDI機器を用いて制作した音楽は特に「コンピュ・ミュージック」と呼ばれた。来日したミュージシャンが、「テクノポップ」という言葉を知らなかったという例は多い。また、欧州においては、“TECHNO POP”は異なる意味で使われていた[2]ともいう。
日本では1978年後半からイエロー・マジック・オーケストラ(YMO)の大ブームが起こり、それを追うように「テクノ御三家[3]」が登場し、テクノポップ・ムーブメントというべき状況が起こった。
1980年代後半から、世界的に流行したダンス・ミュージックのスタイルにテクノやハウスがある。アシッドハウス、デトロイト・テクノという一連の流れから生まれたものであり、日本のテクノポップと直接的なつながりはないとされる。

1970年代末から80年代前半

史上初のリズムマシン、Roland TR-808(1980年)。YMOは発売前のプロトタイプ機を使用していた

テクノポップブーム後期からバンドブーム期にかけて使用された代表的なシンセサイザー、YAMAHA DX7(1983年)
テクノポップという言葉は、1978年、大阪で『ロック・マガジン』を発行していたロック評論家の阿木譲が、クラフトワークのアルバム『人間解体』のレビューで使ったのが初出とされている。この造語を気に入った坂本龍一がさまざまな媒体に出演して使ったことにより、一般に広まったといわれている。
1980年ごろYMOブームが起きると、YMOに続く「テクノ御三家」としてP-MODEL、ヒカシュー、プラスチックスが紹介された。プラスチックスはファッションデザイナーらによって結成されたバンドで、のちのバブル期の日本を先取りしたような「軽さ」をうち出していた[9]。演劇畑出身のヒカシューは、クラフトワークの『モデル』を能・狂言のような邦楽的な歌唱法でカバーした。その後、巻上公一とヒカシューはテクノ・ポップの枠にとどまらず、前衛音楽・前衛ロックの分野へと、大きく羽ばたいていった。P-MODELはもともとブラック・サバスとキング・クリムゾンに影響を受けたプログレバンドのマンドレイクが、電子音とバンドサウンドを同期させたスタイルに転じたものであった。彼らに共通しているのは電子楽器の使用だけでなく「軽さへの指向」である。テクノポップは、日本にとって1970年代の文化の暗さや重さ(例えば劇画が代表的である)から脱出するための一つの方法論であった。 
ブーム期のテクノポップ・バンドとしては他に、「恋のベンチ・シート」をヒットさせたジューシィ・フルーツ(ヒカシューと同じく近田春夫がプロデュースしている)、小川美潮が在籍したチャクラ、大橋純子&美乃家セントラルステーションでファンク曲を作曲したこともある土屋昌巳の一風堂などがいた。高木完やサエキけんぞうもテクノ・ポップ・グループを結成したが、ラジオではオンエアされず、不発に終わってしまった。
また、アイドルや芸能人による『テクノ歌謡』もリリースされた。これらの曲の一部は、坂本龍一、細野晴臣、高橋幸宏などがプロデュースしている[11]。
ブームを担った中核的なレーベルとしては、YMOや戸川純らが在籍したアルファレコードの¥ENレーベルなどがある。
この頃来日したクラフトワークは「テクノポップ」と言う言葉を気に入り1983年にリリースを予定したアルバムタイトルを『TECHNO POP』と題したがお蔵入りとなり、1986年に『エレクトリック・カフェ』と改題してリリースした[13]。この中に「TECHNO POP」と題する曲が収録されている。バグルスは1979年に『ラジオスターの悲劇』のヒットを出したあと、1980年に発表したシングル「CLEAN CLEAN」のB面に「TECHNOPOP」という曲を収録しており[14]、アルバム『THE AGE OF PLASTIC』の1999年リマスター版にも追加収録されている。80年代前半の欧米では、ゲイリー・ニューマン、M、リップス、ヒューマン・リーグ、ソフト・セルらが「シンセ・ポップ」の全米ヒットを送り出した。ゲイリー・ニューマン『カーズ』、M『ポップ・ミュージック』、リップス『ファンキー・タウン』、ヒューマン・リーグ『ドント・ユー・ウォント・ミー』、ソフト・セル「テインテッド・ラブ』、OMD『エノラ・ゲイの悲劇』などは、当時の代表的なヒット曲である。ヤーブロウ&ピープルズの『ドント・ストップ・ザ・ミュージック』(1981)はヴォーカルがソウルフルなため、テクノというよりも、R&Bグループがテクノを取り入れたものと、とらえた方がいいと言えるだろう。

(quotation from Wikipedia)

まず「イエローマジックオーケストラ」がリリースされたがセールスは今一つ。マーケティングが知名度がなかったので売れなかった。



火が付いたのはアメリカのボトムライン(ライブハウス)で演奏をしてから。東洋の神秘巨人「イエロー・マジック・オーケストラ」の誕生となる。




ブームはアメリカでまず起こった。それから日本に逆輸入という形で徐々にその知名度は広がっていったのである。









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Twitterまとめ投稿 2019/06/01


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