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Get on Up! [音楽的発想]

この曲を聴いたときは、正直「衝撃」を覚えた。
「ジェームスブラウン」は「ソウルダイナマイト」の威名を持つエネルギッシュな人物である。
この曲に関しては「ソウル」にしては、単調な「リフ」の繰り返しに載せて、
「ゲロッパ!」とシャウトしているだけなのだが感動する。
「リズムギター」がキレがよいのと「キーボード」が彩りを添えている。
「ソウル」が体の中から噴出してくるような「名曲」である。
「sexmachine」かっこいい。




my choice




生い立ち
ジェイムズ・ジョセフ・ブラウン・ジュニアとして、サウスカロライナ州バーンウェルに生まれる。このことは、本人が自伝などでも書いているが、他にも1928年、テネシー州プラスキ生まれという説がある。成人後に、ジェイムズ・ジョセフ・ブラウンへと改名している。一家は貧しく、ジョージア州オーガスタに移り住んだが、ブラウンは親類の家などで育てられた。幼少時は、綿花詰みの手伝いや下町での靴磨きを行って生計を助けた。子供時代から地元の「アマチュア・ナイト」で歌っては優勝をさらうほどの歌唱力を持っていた、とブラウンは回想している。15歳の時の車の窃盗を、16歳(成人扱い)で反省があれば8年反省がなければ16年という、差別をたっぷり含んだ有罪判決を下され、1948年から教護院に収容された。
教護院での服役中に、ブラウンはボビー・バードと知り合う。バードの家族は、ブラウンの釈放後の生活を助けた。ブラウンは、オーガスタまたはリッチモンド郡に戻らず、職を得るという条件で出所し、ボクサー、野球のピッチャーを短期間経験したが、脚の怪我で断念することとなる。ブラウンは、音楽へその情熱を傾けることとなった。
1950年代(ミスター・ダイナマイト)
ブラウンとバードの妹サラは、1955年からゴスペル・グループ「ザ・ゴスペル・スターライターズ」として活動を始める。その後、結局ブラウンはバードのグループ「エイヴォンズ」に参加し、バードはグループをリズム・アンド・ブルースバンドとして活動していくことになる。バンドは、その名を「フェイマス・フレイムズ」と変え、オハイオ州シンシナティでシド・ネーサンのキング・レコードと契約を結ぶ。
シド・ネーサンは頑固な男だった。ブラウンが「プリーズ~」と歌い始めるとネーサンは腹を立て、スタジオから出ていってしまった。ネーサンの言い分は「こんなものは音楽でも何でもない。ただのクズだ」というものだった。それでもブラウンが音楽的な妙味を説明し、なんとか発表にこぎつけることができた。バンドのファースト・シングル「プリーズ・プリーズ・プリーズ Please, Please, Please」[5]は、1956年にリリースされた。レコードには「ジェイムズ・ブラウンとフェイマス・フレイムズ James Brown with the Famous Flames」とクレジットされ、同シングルはチャート5位を記録し、ミリオン・セラーとなった。しかしながら、その後はヒット曲に恵まれず、続く9枚のシングルが商業的に失敗した後、キング・レコードはバンドと契約解除を行おうとした。1958年の「トライ・ミー Try Me」がビルボード48位の小ヒットとなり、バンドは活動を継続させることができた。バンドの曲のほとんどはブラウンが作曲し、バードのバンドであったフレイムズはブラウンが実質的なリーダーへと変化、結局は後のソロ活動において、フレイムズがバックバンドとなっていった。
これらの初期の録音には「I'll Go Crazy」(1959)「Bewildered」(1960)といったゴスペルの影響を強く受けた曲や、リトル・リチャードやレイ・チャールズといった同時代のアーティストの影響を受けた作品が含まれていた。しかし、その歌唱スタイルは変化、後には「ファンク」と呼ばれるスタイルに発展していき、Pファンク、プリンスなどに強い影響を与えた。
1960年代(ファンク革命)
ブラウンとフレームスの初期のシングルは、アメリカ南部およびR&Bチャートでは成功していたが、彼らの全国的な成功は、キング・レコードの反対を押し切ってリリースした『Live at the Apollo (1962)』まで待たなければならなかった。
ライブ・アルバムが成功した後、最初のファンク・ナンバーとされる1964年の「アウト・オブ・サイト・Out of Sight」を発表。さらに「 Night Train」を制作した。これらの曲は、ギターのカッテングに、ホーンセクションとベース・ドラムスが特徴だった。ブラウンのヴォーカルは、リズミカルバックにのり好調を保った。しかしながら、「Out of Sight」はスマッシュ・レコードからリリースされたため、キング・レコードとの契約破棄に関する法廷闘争となり、裁判所は彼の録音作品の1年間リリース禁止を言い渡した。67年ごろのJBsのドラマーには、「ファンキー・ドラマー」クライド・スタブルフィールドがいた。「コールド・スウェット」はクライドがドラムスを担当した傑作ナンバーだった。
1970年代(ファンキー・プレジデント)
60年代末から70年代初頭に、彼はキャリアの頂点を迎える。この時期のヒットとしては「セックス・マシーン」「リッキン・スッティック」「スーパー・バッド」「ソウル・パワー」「ギブ・イット・アップ・オア・ターン・イット・ルーズ」「アイム・ア・グリーディ・マン」「メイク・イット・ファンキー」などがある。1970年3月には、ジェームス・ブラウンのバック・バンドに大幅なメンバーチェンジがあった。給料に関するトラブルから、メイシオ・パーカー(テナーサックス)をはじめとするメンバーのほぼ全員が脱退した。それに伴い、ブーツィー・コリンズ(ベース)らを中心とする新しいバンドが迎え入れられる。彼らは「JBズ The J.B.'s」と名付けられ、その名義でのリリースも行うようになった。ブラウンの「全盛期」を支えたJBズの主要なメンバーは、次の通りである。
1970-71年ごろのメンバー
ダリル・ジャミソン(Darryl 'Hasaan' Jamison) - トランペット
クレイトン・ガネルズ(Crayton 'Chicken' Gunnels) - トランペット
フレッド・ウェズリー(Fred Wesley) - トロンボーン
ロバート・マックロー(Robert McClaugh) - テナーサックス
セントクレア・ピックニー(St. Clair Pickney) - テナーサックス
フェルプス・キャットフィッシュ・コリンズ(Phelps 'Catfish' Collins) - ギター
ハーロン・マーティン(Harlon 'Cheese' Martin) - ギター
ウィリアム・コリンズ(William 'Bootsy' Collins) - ベース
ジョニー・グリッグス(Jonny Griggs) - コンガ、パーカッション
クライド・スタブルフィールド(Clyde Stubblefield) - ドラム
ジョン(ジャボ)・スタークス(John "Jabo" Starks) - ドラム
ヴィッキー・アンダーソン(マイラ・バーンズ)(Vicki Anderson) - ボーカル
ダニー・レイ(Danny Ray) - MC
1970年末からは、フレッド・ウェズリーが音楽監督となった。ウェズリーが75年に脱退するまでの4〜5年間は、「ファンク完成期」とでも言うべき時期であり、ブラウンの充実期である。1972年から74、75年までの主要メンバーは次の通り。
1972-74年(75年)ごろのメンバー
ジェローム・サンフォード(Jerome 'Jasaan' Sanford) - トランペット
ダリル・ジャミソン(Darryl 'Hasaan' Jamison) - トランペット
アイク・オークレー(Ike Oakley) - トランペット
フレッド・ウェズリーFred Wesley - トロンボーン/音楽監督
ジミー・パーカー(Jimmy Parker) - アルト・サックス
メイシオ・パーカー(Maceo Parker) - アルト・サックス ※1973年頃再加入
セント・クレア・ピンクニー(St. Clair Pinckney) - テナー・サックス
エルディー・ウィリアムス(Eldee Williams) - テナー・サックス
スウィート・チャールズ・シェレル - キーボードおよびベース
ジミー・ノーラン(Jimmy Nolen) - ギター ※1972年頃再加入
ハーロン・マーチン(Harlon 'Cheese' Martin) - ギター
ロバート・コールマン(Robert Coleman) - ギター ※1971〜2年頃脱退
フレッド・トーマス(Fred Thomas) - ベース
ジョニー・グリッグス(Jonny Griggs) - コンガ、パーカッション
ジョン(ジャボ)・スタークス(John 'Jabo' Starks) - ドラマー
マーサ・ハイ(Martha 'High' Harvin) - バックボーカル
ダニー・レイ(Danny Ray) - MC
ボビー・バード(Bobby Byrd) - ボーカル、オルガン
リン・コリンズ(Lyn Collins) - ボーカル
72年にはファンクの傑作「ゲット・オン・ザ・グッド・フット」を発表した。73年、74年はやや勢いが弱まるが「ペイバック」「ファンキー・プレジデント」「マイ・サング」など、まずまずの作品を発表した。1974年には、ブラウンはアフリカで公演している。アフリカのザイール(現コンゴ民主共和国)の首都のキンシャサで、ボクシング世界ヘビー級タイトルマッチが行われた。挑戦者モハメド・アリと王者ジョージ・フォアマンが対戦し、「世紀の一戦」「キンシャサの奇跡」と謳われた。この試合をプロモートしたドン・キングが同時に開催したアフリカのウッドストックと宣伝された音楽フェスティバルに、ブラウンが出演した。この模様は、映画『モハメド・アリ かけがえのない日々』や映画『SOUL POWER』で観ることができる。
その後、1975年頃から起こった「ディスコ・ブーム」とともに、彼の人気は下降線をたどる。ブラウンのサウンドは、ダンス・ミュージックのオリジナルであるにも関わらず、皮肉にもディスコ・ブームに乗ることは出来なかった。76年の『Get Up Offa That Thing』や77年の『Bodyheat』などのヒットもあるが、70年代後半はブラウンのセールスは低調で冬の時代を迎える。しかし79年の「イッツ・トゥー・ファンキー・イン・ヒア」を含むアルバム「オリジナル・ディスコ・マン」は、佳作として後に評価されている。

(quotation from Wikipedia)




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コメント 4

chyake

>マチャさんこんばんは[夜]
[ハート]markありがとうございます[嬉しい顔]
[リボン]これからもよろしくお願いします。[リボン]
by chyake (2010-10-20 21:07) 

goma1113

当時破天荒な音楽に思えましたが、カップヌードルのCMに使われてから再認識しました
名曲だ!と
by goma1113 (2010-10-21 07:24) 

chyake

>goma1113さんこんばんは[夜]
[ハート]mark[ペン]commentありがとうございます。[嬉しい顔]
確かに名曲ですね。[手(チョキ)]
by chyake (2010-10-21 19:11) 

chyake

>あこさんこんばんは[夜]
[ハート]markありがとうございます。[嬉しい顔]
学校生活を楽しんでますか。
私はボツボツ仕事に励んでいます。
風邪がはやりそうです。
気をつけてくださいね。[ハート]
by chyake (2010-10-22 19:45) 

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