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What's Going On [音楽的発想]

20代の頃、港から夜になって帰る車の中。
カーステレオのFMで、ふと聴いた。

「What's going on?  What's going on?...」
「どうなっているんだろう?どこへいくんだろう?...」
なんて、歌詞である。

そのときの、自分の心境そのものであった。

未だ、答はつかんでいないままである。






my choice




首都ワシントンD.C.にて、ペンテコステ派の説教師であった父マーヴィン・シニアと母アルバータ(旧姓クーパー)のもとに生まれる。出生名はマーヴィン・ペンツ・ゲイ・ジュニア(Marvin Pentz Gay, Jr.)。地元の教会で聖歌隊に参加したことがシンガーとしての第一歩である。歌と同時にピアノやドラムといった、いくつかの楽器の演奏技術も習得し、音楽の下地を養った。しかし、音楽に没頭するきっかけは、厳格な父による躾の範囲を越えた精神的虐待であった。これが後の彼の人生にトラウマとして遺ることとなった。
学業を終え、空軍に入隊・除隊した後にドゥーワップ・コーラスグループ「マーキーズ」の一員として活動を開始する。いくつかのグループを渡り歩くうちに実力をつけた彼は、デトロイトで公演した際に、モータウンレコードの社長であるベリー・ゴーディ・ジュニアにその才能を見出され、同レーベルでソロシンガーとしてのキャリアを踏み出すこととなる。このプロデビューの頃、姓の表記を「Gay」から「Gaye」に変更した。
モータウンに所属していた初めのうちはドラマーとしても活動しており、同レーベルに属した優れたスタジオ・ミュージシャンとの親交を深めた。この経験は後に、楽曲を制作する際に、適材適所で、ミュージシャンを起用し、演奏者の技術を最大限に引き出すという点に生かされていくこととなる。特にベーシストであるジェームス・ジェマーソンは彼の作品に大きな貢献を果たし、数々の作品を生み出すこととなる。やがて、ソロシンガーとしていくつかの作品を出すうちに、少しずつシングルの売上も伸び始め、また、社長の実の姉であるアンナと結婚したことも弾みとなってか「悲しいうわさ[1]」、「キャン・アイ・ゲット・ア・ウィットネス」、「プライド・アンド・ジョイ」「ハウ・スウィート・イット・イズ」「アイル・ビー・ドゴーン」などのヒット曲を生み出した。ナット・キング・コールの洗練とゴスペルの影響を受けたサム・クックやジャッキー・ウィルソンの力強さを兼ねそろえた彼の資質は、モータウン所属の歌手の中でも、高い人気を得ることとなった。
特に1960年代の中期で彼の人気を決定付けたのは、同レーベル所属歌手のタミー・テレルとのデュエットである。息の合った二人のデュエットは高い人気を誇り、「エイント・ノー・マウンテン・ハイ・イナフ」や「エイント・ナッシング・ライク・ザ・リアル・シング」「ユア・プレシャス・ラヴ」などの曲を数多く世に送り出した。また、69年にはソロとして「悲しいうわさ」の大ヒットを放った。
しかし、1970年にテレルが脳腫瘍により24歳で夭折したことがきっかけで、一時期音楽活動を休止してしまう。パートナーであった彼女の不在と共に、刻々と変化する時代に対して、自分が今までの持っていた音楽性に疑問を持ち始めたことも大きな要因であった。やがて、ベトナム戦争から復員してきた弟フランキーと再会したことをきっかけに、また新たな音楽性を示すこととなる。
1971年1月、シングル「ホワッツ・ゴーイン・オン」を発表。この曲の成功を受けて、同年5月に同名のアルバム『ホワッツ・ゴーイン・オン』を発表する。華麗で美しい楽曲と隙のない緻密なアレンジによる音楽性は絶賛を受け、シングル・カットされた「マーシー・マーシー・ミー」もヒットを記録する。アルバムには他に「インナー・シティ・ブルース」が収録されていた。音楽以上に人々に衝撃を与えたのは、このアルバムが、ベトナム戦争や公害、貧困といった社会問題を取り上げた歌詞と、それに対する苦悩を赤裸々に表現したマーヴィンの歌唱であった。当時、シングル盤が中心であった黒人音楽の世界に、一つのテーマ、特に社会情勢などを元にしたコンセプト・アルバムを制作することは画期的なことだった。またこのアルバムの内容についてモータウンは消極的な態度だったが、マーヴィン自身がセルフ・プロデュースという制作体制で望んだことも注目を集めた。自分の感じたままのことを干渉されずに作品にまとめ上げるというこのセルフ・プロデュースの姿勢は、同世代に活躍した黒人ミュージシャンに大きな影響を与えた。マーヴィンの行動に触発されたダニー・ハサウェイやスティーヴィー・ワンダー、カーティス・メイフィールドなどのアーティストが、より自分の才能で個人的世界を音楽に反映し、意欲的で充実した作品を生み出すことになった。彼らの音楽は「ニュー・ソウル」と呼ばれた。また、ニュー・ソウルは80年代のアレクサンダー・オニールら次世代の黒人アーティストにも受け継がれていった。
さたにマーヴィンは、より私小説的な内容の作品を数多く生み出していく。72年にはサントラ盤『トラブル・マン』を発表。恋人への愛情と性への欲求を表現した『レッツ・ゲット・イット・オン』(1973)、孤独と愛への欲求を表した『アイ・ウォント・ユー』(1976)などの充実したアルバムが制作・発表された。だが、やがて先妻との泥沼の離婚調停や二度目の結婚生活の破綻、自身の薬物依存などが原因で70年代後半は、公私共に低迷していった。それでも77年には、ディスコ風の「黒い夜(Got to Give It Up)」がかなりのヒットになった。『ヒア・マイディア』(1978)は離婚の一部始終を、ぶちまけたアルバムだった。ライター、マーク・ラパポートは、このアルバムを10年以上聴き続けたという。

(quotation from Wikipedia)

[カチンコ]


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コメント 4

せいじ

ベトナム戦争時の反戦歌ですよね。
混沌としていたアメリカ、
そしてマービン・ゲイ本人を反映した名曲中の名曲。

答えは「LET IT BE」では…
by せいじ (2010-10-11 10:11) 

vega

名曲ですね…
誰もが抱く想いなのかな…と…。
私も未だに…。
by vega (2010-10-11 10:24) 

chyake

>せいじさん>あこさん>vegaさんこんにちは[晴れ]
[ハート][ハート][ハート]mark[ペン][ペン]commentありがとうございます。[嬉しい顔]
なつかしい思い出です。
改めて聴いたとき、ちょっと「ウルウル」ときました。[かわいい]
>せいじさん[ハート]
混沌とした時代は過去も現代も続いているようですね。[やや欠け月]
>vegaさん[ハート]
確かに歴史に残る名曲だと思います。[かわいい]
by chyake (2010-10-11 10:36) 

chyake

>goma1113さんこんにちは[晴れ]
[ハート]markありがとうありがとうございます。[嬉しい顔]
運動不足ですので、自転車でもこいできます。[ハート]
by chyake (2010-10-11 12:35) 

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